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街道はまた地域の歴史を知る道しるべでもある。
奥州街道は、大化改新(645年)の翌年に定められた七道駅路のうちの東山道を原型としている。
江戸時代になってから、全国の道路骨格が出来あがっていく。もっとも太いのが、江戸を起点とした五街道。東海道、中山道、日光街道、甲州街道、それにこの奥州街道である。
やがて幕末になると、北海道開拓やロシアの南下に対する警備が必要になり、人馬の往来が活発になる。
人と物が激しく往き来する国道4号、これはその今昔物語である。
蝦夷征伐の道
古代七道駅路(東海、東山(とうざん)、北陸、山陰、山陽、南海、西海(さいかい))は、大化改新(645年)の翌年出された改新の詔に、制度として「駅馬(はいま)、伝馬(つたわりうま)を置く」ことが示されて以来徐々に整備されていった。北方は多賀柵(多賀城)まで東山道が伸びていたが、さらに蝦夷征伐という軍事上の必要性から大規模な道路建設がおこなわれた。
ねぶたは、その蝦夷征伐から生まれたという。坂上田村麻呂が平内(ひらない)に住む蝦夷の首領大丈丸(おおたけまる)をおびき寄せるためにねぶたを作って置いた所が、平内の浅所から浜子・清水川辺りではないかと言われてきた。そのため、平内はねぶた発祥の地と言われている。
徳川家康がつくった街道
律令制時代の道路が変化するのは、戦国時代を経て徳川幕府の時代になってからである。
戦国大名は領国を守るために国内中心の整備を行ってきたが、それが織田信長や豊臣秀吉によって広域の交通に注意が向けられるようになってくる。そして徳川家康による全国統一とともに、全国をネットワークする道路システムが完成した。
江戸時代の街道は幕府直轄の道路である五街道とそれに付属する道路、さらに大名の実質的な管理下にあった脇街道からなり、ほぼ現在の道路の原型がこの頃できあがった。
奥州道中は厳密には宇都宮から白河までをいい、道中奉行管轄のいわば正式な奥州道中とされたのはここまでである。
それ以北を奥州街道または三厩(みんまや)までいれて松前街道とも呼ばれたが、白河以北は、宿も一定しない脇街道として幕府の間接的な支配下にあった。
江戸時代の奥州街道は、沿道人口も少なく、主に奥羽諸大名が参勤交代に利用する程度の道だったようである。しかも奥州街道で他の街道のように宿場が発達しなかったのは、大名が参勤交代の都度、自領内からの助郷(すけごう)調達で賄うことが可能だったからといわれている。
また、青森県内の奥州街道を使って参勤交代をしたのは松前藩だけで、南部領を通る奥州街道を、津軽のお殿様は絶対に通らなかったためでもある。
この街道は、途中、天間舘(てんまだて)から夫雑原(ぶぞうはら)を経て野辺地に至る本道(下道)と、現在の国道四号の母体となっている中野、坪、柳平、尾山頭を経て野辺地に至る上道(坪道)の二ルートがあり、後者は江戸時代後半には近道として利用されていた。七戸には街道からさらに分岐する間道への入口に追分石(おいわけいし)が置かれた。その追分石は現在、青岩寺にある。
また、江戸時代の初期には、この街道にもすでに一里塚が作られていたようで、現在も大きなケヤキのそびえる天間舘一里塚、蒼前平(そうぜんたい)一里塚など南部地方には比較的多く残されている。
奥州街道の往来盛んになる
明和2年(1765)に尾去沢(おさりさわ)銅山が盛岡藩の藩営になると、大坂への廻銅は鹿角(かづの)街道を通って三戸へ運ばれ、三戸から奥州街道を北上して積出港野辺地へ送られた。
その際、五戸、三戸、七戸の御用大豆も各代官所から奥州街道を利用して野辺地へ送られるようになり、街道の人馬の通行も増えてきた。さらに幕末の頃になると、寛政4年(1792)にラックスマンが根室に来るなど、ロシア勢力の南下の兆しが顕著になり、北方外交が急を告げるようになると、盛岡藩は幕命により藩士を下北半島の海防に派遣する。
そのため、奥州街道は急速に公用人馬の継立の需要が増大し、経済的な発展とともに諸物資の運送が増大し、一躍主要街道となっていったのである。
函館開港後は、奥州街道を北上し、野辺地から田名部道を通って蝦夷地へ渡るルートが盛んに利用されるようになる。斗南藩へ入る松平容保も、ロシアとの交渉に当たった廣澤安任もこの街道を通った。
明治9年(1876)と14年の二度にわたる天皇の東北巡幸は、最初は仙台、盛岡を経て三戸、五戸、七戸、野辺地、青森を通って函館へ、二度目は八戸、三本木、野辺地、青森からいったん北海道へ、その後再び青森へ戻り、浪岡、黒石、弘前から秋田県へ回られた。各地には記念碑や行在所が残っている。
平成8年には、国道4号七戸〜天間林間1.6キロが歴史国道に選定された。道の駅「しちのへ」七戸町文化村を過ぎると、250本の見上げるような赤松の並木が始まる。
奥州街道は国道4号と名称こそ変わったが、東京〜青森間を結ぶ東日本の太い動脈であることには依然として変わりない。
この地方と馬の歴史は、神馬に始まる。原野を軽やかに疾走する馬の姿を見て、昔の人々は神の使いだと考えた。この地には、馬にまつわる神社や伝説が数多く残され、馬のお祭りもある。遠い昔から、この地の人々は、馬を敬い、馬を愛する生活を送っていた。
中世からは、丈夫で俊足の南部駒は軍馬として戦の主役となり、全国にその名を馳せた。
平和な時代になっても、運搬・農耕に使われ、つねに人々の暮らしと共にあった。
このように、この地の暮らしはつねに馬と共にあり、馬は苦楽を共にした良き友であった。
今この地は、馬と共に生きてきた歴史を保存し、祝い、復活させようと考えている。
馬に触れ、馬と遊び、馬と人間が共存するまちがこの地の人たちの願いである。
南部駒の登場
南部駒が歴史に登場するのは、いつ頃からだろうか。
奈良時代の養老2年(718)、出羽と渡嶋(おしま)の蝦夷が馬を献上し、位禄(いろく)を授けられたと「扶桑略記」(ふそうりゃくき)にある。ただし、この馬は在来の馬ではなく北方系騎馬民族の馬が渡来したものらしい。
それから百年たった平安時代。弘仁6年(815)に、朝廷が奥羽強壮の馬を権貴豪富が求めることを禁じていることからも、当時すでに奥羽産の馬が高く評価されていたことがわかる。
陸奥の おぶちの駒も のがふには 荒れこそまされ なつくものかは(詠み人知らず)
「後撰和歌集」(951)に選ばれた歌にも尾駮(おぶち)の牧が歌われ、馬産地としての歴史が読みとれる。
さらに、「吾妻鏡(あづまかがみ)」(鎌倉期に編成)には、平泉の藤原基衡(もとひら)が毛越寺(もうつうじ)金堂に安置する本尊の製作を京の仏師運慶(うんけい)に依頼したとき、金百両、鷲羽(わしう)百尻、水豹(あざらし)皮等とともに糠部(ぬかのぶ)の駿馬(しゅんめ)50匹を贈ったとされる。糠部の馬が奥州を代表する名産品となっていたのである。
ことに駿馬の需要は、当時台頭著しい武士達にあった。源平の合戦では勇猛な武士とともに愛馬もまた後世に名を残している。
宇治川の先陣争いで有名な佐々木四郎高綱の乗馬「生?(いけづき)」は七戸産、梶原源太景季の「磨墨(するすみ)」は三戸、熊谷二郎直実の「権太栗毛」は一戸、「西楼」は三戸、義経のひよどり越えに一役買った「太夫黒」は三戸産といわれている。
「戸(へ)」の始まり
ところで、この地域特有の一から九まである「戸」のつく地名(現在、四戸はない)は、その起源が平安時代とも鎌倉時代ともいわれ、しかも馬と関係がある。
一説には、弘仁年間(810〜824)、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が蝦夷平定の後、かの地に残した守備兵の駐屯地(柵戸(さくご))から発展した村落に由来する。一戸から七戸までがほぼ一日の行程間隔に並んでいることや、一郷を形成する戸主に戸番をつけ、これが柵戸を置くときにも適用されたとみられることが根拠になっている。
これに対し、鎌倉説は、源頼朝が奥州藤原氏を平定した後、牧馬政策の必要性から糠部郡を置き、多くの御家人を地頭に任命したことに始まるとする。
その一人、南部氏は馬産地の甲斐出身で、牧の経営に手腕を発揮したという。南部氏は、糠部郡を九つの部(戸)に分け、一部(戸)ごとに七つの村と一つの牧場を置き、九戸を東西南北四つの門に分属させた(九ヶ部四門の制)といわれてきたが、最近では九戸と四門が併存していたという説が有力である。
いずれにせよ糠部全体が統制されるのは江戸時代に入ってからである。
二十九代藩主南部重信は、九戸・閉伊(へい)・三戸・北の各郡に九牧を開き、藩営牧場の基礎を築いた。その後、南部藩は馬産に積極的に取り組み、八代将軍吉宗の時代にはペルシャ馬を下賜(かし)され改良を進めた。寛文から天保に至る百七十年間に八回徳川将軍家へ献馬が行われたことで、南部駒の名声はさらに高まったのである。
南部藩の馬産体制
この名声を維持するために、南部藩の馬産体制は周到を極めていた。九牧の管理体制は、三戸に御野馬役所をおいていくつかの特別の役職や御馬医を置き、各村には馬肝煎(うまきもいり、馬管理の長)以下、馬看名子(馬の世話人)、御野係百姓、木戸番など、念入りの体制がとられていた。
飼育方法は放牧で、春の草焼きの後、野放ちを行い、秋には近村の勢子(せこ)を駆り出して御野捕り(おのどり)を行う。一斉に勢子が声を上げて馬を追い込む御野捕りの様は壮観で、中でも木崎野牧(三沢市)のものが頭数も多く迫力のあるものだったという。
秋に野捕りをした馬は、翌春までの冬期間農家に預けられた(舎飼)。舎飼は無報酬で、農民の大きな負担となり、藩ではできるだけ冬期も放牧を続ける通年放牧を採用したが、厳しい気候のもとではなかなか定着しなかった。
しかし中には、まれに冬期に耐え、年を越して生存する駒がいた。宝暦年間の頃(1751〜64)、このことに着目した御馬別当一戸(いちのへ)五右衛門は、無謀と思われた冬期間の野飼いの許可をもらい断行した。その初年は大雪で多数の馬を失い、雪が消えると五メートルの木に死んだ馬がかかっていた光景もあったという惨憺たる結果となった。
しかし五右衛門は、冬期の放牧を続けた。老木を切り倒して木口に火を付けると、野馬は火の気に近づき周囲の雪溶けの下の笹を捜して食べた。積雪の多いときは雪の上に干し草や豆、麦などの飼料をまいて与えるなど、人も馬も共に限界に挑戦したのである。こうした試練を乗り越えて、人と馬の強いつながりをこの地は育んできたのである。
馬がもたらした文化
「願いかなう絵馬の町」がキャッチフレーズの七戸町にある見町(みるまち)観音堂と小田子不動堂には、三百点に及ぶ江戸時代の小絵馬が奉納され、国の重要有形民俗文化財となっている。
馬はもともと神の乗り物であり、神霊は乗馬姿で人界に降臨すると考えられていたことから、古くは生きた馬を社寺に奉納する習慣があった。絵馬はこれに代わるものと考えられている。
絵馬には、畳二枚もある大きなものや名刺大の小絵馬、馬型をした板絵馬など様々なものがあるが、南部小絵馬は旧南部藩内に限って分布する独特のもので、上方や江戸の文化の影響を受けた絵心のある者によって描かれたものといわれている。
馬市と産馬通り
馬産の町として知られていた十和田市(当時は三本木町)に、陸軍省軍馬育成所が設置されたのは明治17年(1884)。その後、軍馬補充部三本木支部と改称され、数万頭の軍馬を育成する全国一の規模を誇った。
同じ頃、三本木町馬産組合がつくられ、馬せり(馬市)も盛んになった。
当時は常設市場もなく、稲荷神社広場などで毎年11月2日から約十日間行われた。その間はまるでお祭りのように人が集まり、周辺の旅館・商店は産馬で潤ったため、町の人たちは馬市のことを「おせり」と尊称をつけて呼んだという。
満州事変から支那事変と続いた軍需用の急増で、馬市の期間を延長するほどにぎわった時には、産馬通りには屋台店が立ち並び、人と馬糞のにおいでムンムンしていたという。めでたく「軍馬御用」にあずかった馬主は、料亭に上がり込み、百円の札ビラを切るので料亭の主人は釣り銭に困るほどだった。
戦後、軍馬補充部が解体されると、大規模な区画整理が行われ、正門に通じる道を中心に官庁街が整備された。
東西に1.1キロ、幅36メートルの官庁街通りには、40を越える官公庁が並び、松と桜が四列の並木をつくる十和田市のシンボルロードになっている。昭和61年(1986)「日本の道百選」にも選ばれた。
歩道に埋め込まれた蹄鉄や馬のモニュメントは、ほんの50年前まで、本物の馬がこの通りを行き交っていた様子を彷彿とさせる。
今は「駒街道」として市民から親しまれている官庁街通り。緑の松に春の満開の桜、秋の紅葉が歩く人の心を和ませてくれる。
青森を東西に二分する南部と津軽。400年前までは、全てが広大な南部藩領であり、群雄割拠の時代に津軽が独立したのである。
八甲田山系で二分される両地は、気候も異なり、住む人の気性や言葉も異なるとされ、歴史的にも何度かの大きな争いがあった。
両地の争いの歴史が歴史観・文化観の違いとなり、地域の個性を形づくっている。
その象徴が今に残る藩境塚である。
南部領津軽
およそ4百年前、かつては津軽を含む広大な南部の藩領から、米の良くとれる地味豊かな津軽は独立した。
天正15年(1587)、戦国の群雄割拠の時代も終盤に入ろうとしていた頃のことである。
豊臣秀吉は九州に島津を下して九州を平定したが、関東以北はまだ平定されていなかった。三戸城主南部信直が、秀吉から本領安堵の朱印状をもらったのはその年の九月。それでも南部の中に蠢(うごめ)く反逆の動きを制することはできなかった。九戸政実反逆の噂や、津軽郡代の支配力の凋落、それに対して久慈から来た大浦為信の台頭である。
領民の信頼と尊敬を集めていた為信は、対立する同じ家臣の大光寺光愛を津軽から追い払い、南部家に対立する決意を固め、そのチャンスをうかがっていた。
天正16年(1588)3月、津軽代官政信が急死する。為信の病気全快癒祝いに持ってきた料理を食べたのである。政信の側室で為信の妹でもある久子の毒味に安心したのである。久子は翌日急死、家臣三名も死んだ。為信も食べたのだが、命に別状はなかった。
この不自然さが為信の計画的な毒殺であろうとの噂は、三戸の信直にも届いた。驚いた信直は、代わりの郡代を派遣し津軽統治を建て直し、為信への警戒を強めようとした。
新しい郡代は政策刷新を行おうとして税の新設や高率課税を断行しようとするが、かえってこれが津軽領民の不満を募らせることになった。
津軽の独立
「機は熟したり」。為信は、同じ決意の九戸政実と連携して、遂に天正18年(1590)3月、郡代居城の浪岡城の占領に成功する。
「今後領民は悪税に泣くことなく業に励むことができる」と独立宣言すると、これに呼応する者2千余人、勢いはさらに盛んになった。
三戸の信直は総力を挙げて津軽に出陣しようとしたが、九戸政実はもちろんその一派も兵を出さない。そのあげくに信直が津軽に出陣した後の三戸城を九戸が攻撃しようとしていることを知り、信直は急いで三戸へとって返したのである。
信直は何もできず、まさに進退窮まった。為信の独立は成功し、浪岡城と共に津軽領三郡三十ヶ村が四十一歳の為信の手中に収まったのである。
ちょうどその頃、関東へ秀吉が下ってきていた。小田原城攻めである。信直へも小田原出陣を促す連絡が入ってきた。南部家最大の危機にあった信直は、やむなく一族の八戸政栄に三戸領を任せて、一千人を供に三戸城を出発した。
一方、津軽の為信もまた、秀吉から本領安堵の朱印状を手に入れようと考え、京都近衛家へ多額の金子と土産をもって工作し、近衛家から藤原の姓と杏葉の紋所をもらい、その足で小田原の秀吉の本陣を訪れている。
東北北端の地から参上した一行に秀吉は満足し、津軽三郡の領主であることを認め、あっさりと朱印状を与えたのであった。
入れ替わるように関東へ入った信直は、秀吉へ津軽の反乱平定についての許しを得ようとするが、すでに為信へ朱印状は下され、取り消しは困難と聞かされる。もはや信直は、津軽討伐をあきらめざるを得なくなったのである。
その後、三戸南部氏は、北の津軽への防備に七戸城を、南の伊達氏への備えに八戸氏を遠野へ移封し、元和5年(1619)自らもまた三戸の地を離れ盛岡へ移すことになる。
今に残る藩境塚
南部と津軽の境界を示す塚は、津軽独立の直後の頃に作られたという説がある。
津軽の領土を東を狩場沢をもって国境と定めたのが文禄元年(1592)。東北検地のため、東奥巡検使の前田利家らが来た時のことである。
その時に為信は自ら巡検使一行を狩場沢まで見送ったという。すでに境界の塚は存在し、しかも、あたかも南部氏と協議の上で造築されたかのように思わせるために、わざわざ自らが見送りをしたというのである。
また、津軽為信が平内郷を手に入れたのが天正15年(1587)、以後為信は、それまでの平内一帯の支配者七戸氏に境目上代を任命しているが、元和8年(1622)、七戸氏三代目の時に、境目の抗議について取り上げられなかったため職を辞したと「七戸家由緒書」に記していることから、すでに境界塚はできていたのであろう。
こうして津軽独立、境界塚の造築以来「士民童幼婦女といえども、津軽を仇敵し維新の時まで往来を絶つに至る」と「南部史要」に記されたのである。
その後も正徳4年(1714)、平内・馬門の入り会い事件でも南部藩は敗訴する。その時の「勝った勝った狩場沢、負けた負けた馬門」の言葉は今でも残っている。
文政4年(1821)の相馬大作の義挙と処刑、最後は野辺地戦争となって多くの犠牲者が出ることになる。
野辺地戦争とその後
明治元年(1868)正月、仙台藩に会津藩の討伐、久保田藩(秋田)に庄内藩の討伐の命令が下された。その他の藩には、両藩の応援の命令が下され、同年3月奥羽鎮撫総督が仙台に入った。
しかし、この命令に従う意志のなかった諸藩は、総督府直属軍の派遣、会津・庄内赦免の嘆願書がことごとく拒否されたことで、総督府に対する反感が急速に高まり、奥羽越列藩同盟が成立した。しかし諸藩の内実は勤王か佐幕かの藩論は必ずしも定まってはいなかった。
奥羽越列藩同盟への参加に傾いていた津軽藩は、同年7月5日、京詰めの用人西館平馬の意見により、一転して「勤王討庄」を決議した。
一方の南部藩も、総督の命令に抗しかねて4月末には、八戸藩とともに会津討伐に出兵するが、それでも藩論は定まっていなかった。7月16日、家老楢山佐渡は同盟を破った久保田藩の討伐を主張し、8月全軍が秋田に進んだ。
しかし9月に入ると、同盟軍は次々と降伏を願い出て、盛岡藩も十月七日ついに城を開け渡すことになる。
野辺地戦争はこうした中で勃発した。
9月10日、奥羽の官軍応援のために軍艦陽春に乗り込んだ肥前鍋島藩は、津軽藩と共同して海陸から野辺地に集結している南部兵を攻撃することになっていた。ところが、津軽藩の野辺地攻撃が遅れていたため、単独で野辺地沖から砲撃するも不発に終わり、却って大損害を被ることになる。
津軽軍の野辺地攻略はその2週間後に行われた。しかし、それも風雨と細い山道のため思うよう作戦が進まず、40余人の死傷者を出しながら狩場沢まで退却を余儀なくされたのである。
この戦争は官軍侵攻の大局には何ら影響がなかった。一時的にせよ奥羽越列藩同盟に加わったことを苦慮して、勤王の実を上げようと効を焦って仕掛けた戦いともいわれる。
中央の動向を敏感に反応して、南部藩から独立を果たした津軽の祖、為信が生きていたらどのように行動しただろうか。
100年ごとに起きる南部と津軽の大事件は、結果は南部藩にとっては譲歩と後退の連続で、そのたびに100年前を苦々しく思い出していたのかもしれない。一方にとっては、それが歴史的には当然の成り行きでもあり、時代を画す変化であった。
南部と津軽の長い確執と反目を司馬遼太郎は、「抽象度の高い憎悪」(陸奥の道)と呼んだが、憎悪はともかくとして、その歴史観・文化観の違いは今も残り、地域の個性となっている。
野辺地湊に今も残る常夜燈。
江戸の頃、この灯りをたよりに数多くの千石船が陸奥湾を往き来していた。
100万都市江戸の膨大な消費をまかなうために、江戸の中期頃からは、全国に回覧の寄港地ができ、河村瑞賢による東廻海運・西廻海運の開発によって全国的商品輸送網が確立していった。
とくに北陸の船持豪商による西廻り回船は「北前船」と呼ばれ、野辺地湊は北前船で大いに賑わった。
この地では、北前船を「ベンザイ船」あるいは「ドングリ船」と呼び、上り船(上方へ向かう船)には、ヒバ、南部駒、なまこなどが積まれ、下り船(上方からの船)からは日用雑貨がもたらされた。
野辺地湊には、これらの品々と共に、上方風の文化が持ち込まれたのである。
毎年8月に催されるのへじ祇園祭りは、この名残である。
野辺地湊の繁栄
南部藩では、下北半島の豊富なヒバ材を切り出し、田名部諸湊から北陸・上方へ輸送し財を得ていた。加賀の豪商、銭五(ぜにご)こと銭屋五兵衛もまた、材木問屋職を命じられて海運に乗り出し、文化9年(1812)にヒバを求めて下北にきたことが、佐井村松屋の「お客帳」に残されている。
当時の南部藩の産物は、田名部のヒバのほか、五戸・七戸の2歳駒、三戸の漆器、横浜の煎海鼠(いりなまこ)であり、野辺地湊はこれらを積み出す湊としてとくに重要であった。
文化・文政期(0804〜1829)には、特に函館、新潟、福井、大坂、金沢などの船の出入りが盛んで、尾去沢・立石両銅山の南部銅(お登(のぼ)せ銅)、大豆(お登せ大豆)、〆粕(しめかす)が野辺地湊から積み出された。
野辺地の回船問屋の中でも、代々藩の御用品を取り扱った野村屋の台頭はめざましかった。
五代目野村治三郎(1800〜1843)は、千石船10数隻を使い財をなし、名字帯刀(みょうじたいとう)を許された。天保年間の飢饉の時は、越後・酒田等から米、そうめん、サツマイモを運び、穀倉を開いて窮民の救済にあたったという。
かつて遠見番所(とおみばんしょ)が置かれていたところに、今も常夜燈が建っている。灯台の役割を担った常夜燈も、治三郎が文政10年(1827)に建立したもので、旧暦3月10日から10月10日まで毎晩灯りをともした。常夜燈は、以前はもっと沖合にあったという。
野辺地湊自体が、陸奥に灯された大きな灯りであったともいえる繁栄ぶりであった。
野辺地の豪商
野辺地の船問屋の繁盛ぶりを伝える話には事欠かない。
田中津右衛門は、慶長18年(1613)浄土宗西光寺の建立に金15両を寄進、元禄11年(1698)には、檜山運上人野坂屋与次兵衛が千曳神社に狛犬一対を寄進したという記録がある。
安永4年(1775)には回船問屋の野村屋兵右衛門、片石屋五郎右衛門、仙台屋彦兵衛、川村屋助五郎、田中屋七郎右衛門、熊谷屋伊八、田中屋又八、加藤屋庄右衛門、島屋清四郎らの9名で、問屋仲間議定書を取り交わしている。
さらに野村屋は、嘉永6年(1853)の野辺地通百姓一揆に応援資金に5千両を出したともいわれている。
明治元年(1868)までのたびたびの上納金は、野辺地通(昔の町単位)負担分のおよそ2分の1を野村屋が、4分の1を野坂屋が出したという。
野辺地には、とてつもないスケールの豪商が集まっていたのである。
北に花開いた京文化
野辺地湊に全国から回船が集まると、上方風の生活様式や文化もまた流入した。
茶がゆ、ケイランなどの精進料理、婚礼や葬儀に商家の女性が単衣の着物を頭から被る「かつぎ」の風習(最近では見られなくなった)は、京から来た伝統といわれている。
明治9年(1876)、天皇の巡幸に随行してきた近藤芳樹が、「東京を出て以来野辺地に来て初めて上方風の料理と灘の酒とを口にした」と記したことにも、かつての繁盛の名残がうかがえる話である。
毎年8月に催されるのへじ祇園祭りも、京都の祇園囃子の流れを汲むものである。豪華絢爛な飾りつけの山車が練り歩き、笛、小太鼓、三味線のゆったりとした調べが京の雅びを誘う。